源義経の肖像画は信頼できるか?

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源義経の肖像画は、少しばかりの越されていますが、実は平安時代末期の頃は、貴人や偉人の肖像画を残すことが一般化してなかったんですね。義経の他の源平期の貴人達も、肖像画となると、後世になってから描かれたものが多いんだそうです。そのため、果たしてどの程度似ているのかは学術的にもかなり疑問になっているそうです。


ただそうはいっても、昔は写真なんかなかったので、源義経の肖像画と言われる現代に伝えられている絵を見るしかないのはしょうがないところでしょう。源義経の肖像画は、牛若丸というよりはちょっとおじさんに書かれているので、がっかりする人もいるんじゃないでしょうか?


もともと肖像画といっても、西洋にみる写実的肖像画とはちょっとちがいますね。日本の場合には、肖像画がそのままその人物をそっくりに描いているのかというと疑問が残ります。まぁ、そうはいっても肖像画があることで過去の人物の様子をある程度は知ることが出来ますから、貴重な歴史資料となることは間違いないでしょうね。

源義経の肖像画で分かることは?

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源義経の肖像画は後世に描かれているのではないか、という疑問もあるらしいのですが、それでも源義経については牛若丸などの話が有名で諸説ある面白い人物ですよね。平安時代に正確な源義経の肖像画が残っていないのが残念ですが、それでも物語の主人公として語り継がれている義経公ですから、今でも私たちに身近な平安時代の貴人であること間違いないです。


源義経は、源義朝の九男(八男説もあり)。母は常盤御前。幼名は牛若丸と言っていました。幼少時は鞍馬寺に預けられていましたが、抜けだして奥州の藤原秀衡の庇護を受けたそうです。治承四年(1180)、兄源頼朝の挙兵を知ると秀衡の制止を振り切って参陣しました。平家討伐の一ノ谷の戦い・屋島の戦いに勝利したあと、さらに壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。


華々しい戦歴を残した割には、頼朝から信頼されずに鎌倉凱旋が許されず、京に戻って打倒頼朝を企てましたが、これは失敗に終わります。そして、その後は、藤原泰衡が頼朝の要求に屈し、泰衡の手勢に攻撃されて、源義経は自害しています。かなり悲しい歴史に翻弄された人物だったのですね。